トップページ

NHKハイビジョンスペシャル
《幻のイワナえを求めて》9月26日午前7時30分~9時30分OA
海外取材:ロシア、カムチャッカ
国内取材:朝日連峰 金目川、梵字川

イメージイメージイメージ

|1.幻のイワナを求めて|2.ロシアへ・カムチャッカの想い3.日本のイワナたち

1.幻のイワナを求めて

『岩魚が好きだ』
青春時代からイワナ一筋に追い求め40年余、その最終符を『奥利根』へ求め、三年間かけて釣行。これをもって釣り行脚の長い夢は終焉を迎えた。
今、改めて岩魚浪漫を振り返ってみると、16歳の時、奥秩父釣橋小屋で初めて見た幻のイワナ幻照を検証する旅であったようだ。
いつのころだったか明らかではないが、たった一人で魚とたわむれ、対峙する自然界の中でイワナ移殖放流は生まれた。イワナの棲息限界地を魚どまりと私は呼んでいる。幸いのことに渓流源流一帯ではダム、堰堤、車道は一切皆無の自然があり魚の新天地にふさわしい。この場所こそ岩魚楽園候補地に違いない。 
「渓流魚殺生人から魚どまりの主になりたい」こう思いながら、魚止の上にイワナを移殖放流、魚たちは見知らぬ地にもかかわらず淵の中で自由に泳いでいる。
日本のイワナたちは北アルプス黒部源流では標高2500m~2600m地点に魚どまりがある。また、南アルプス大井川源流では標高2600m付近が魚の棲息限界だ。
日本アルプスから舞台を飯豊、朝日連邦にうつすと2000m級の山々の源頭に魚影を確認できる。
更に北海道ではイワナの仲間であるオショロコマが魚止までいる。
以上のことを考慮すれば、実践における釣行可能な渓流全域にイワナは生き続けられるようだ。

『山が好きだ』
「釣り馬鹿」を長い間やっていると本格的な大馬鹿者になるかも知れない。私が見本を示している通り、岩魚を中心に世の中が動くような錯覚をし、頭の中はイワナだらけになる。つまり、人の脳はそれぞれに与えられた『知識』『理性』『精神』をつかさどる能力の器みたいなものがある。問題は入れものの大きさだ。どうやら我が輩の半腐れ脳みそ入れときたら、すでにヒビ割れ状態。だから、世間からはみ出され、遠く遠い浮世からかろうじて世論を傍観させてもらっている。
しかしながら、岩魚馬鹿を一目散に突き破る出口の果てに広がっている、岩魚御殿の光景を一度、垣間見るにいたると、まんざらでもない人生だったことに対して、渓流に棲む岩魚王と対等の位にいられる。
アホらしい話はこれぐらいにして,本論にもどる。
なぜ、イワナ一筋に打ち込めたのだろうか。それは山が好きだったからだ。生命の原点は海だけれど、ヒトの命を育むのは水、人類は間違い無く山に向かい歩いた。そこには豊かな飲料水、木の実、川魚がいた。かく私も奥底に潜んでいた何かが目覚めたようで、山の魔物か女神に憑かれたように、何時の間にか渓に入っていた。

『山を考える』
山とは一体どんな所なのだろうか。山入での入門者にとって、山の実態を掌握することから山行は始まる。そのことを理解するには、目的地の五万分の一の地形図あるいは二万五千分の一の地形図、山岳ガイドブックを利用する。
私の場合、地形図に沢登りに関する情報を書き加え入れ、2m未満の川幅の渓流は地図から省略されているので、新たに書き延ばす。大切なことは地形図に記載されていない滝、ゴルジュ、廊下、淵、堰堤、顕著の岸壁、ゴーロ、河原、崩壊地、山小屋、テン場など、沢を遡行するにあたり障害となるものを書き込む。ついでに高巻くルートも書いておく。こうすると、自分だけの地形図ができあがる。これらは机上遡行あるいは机上釣行といって、すでに頭のなかでは夢ロマンは叶えられている。
地形図を広げてみる。すると、山のピークからは東西南北に何本かの沢をみいだせる。すでに沢遡行が終わっている川があれば、目的の山頂へ山麓から一本の線でつなっがている。山を一周するすべての渓流を登破すればかなりの線が山と結ばれる。

『山行の果てで』
あこがれていた山の調査が終了した。これで次なる目標に向かって歩ける。「これで良し」自分にとって新天地に行ける喜びは格別だ。未知なる見果てぬ渓は岩魚浪漫そのものである。それはやがて渓流巡礼につながる。
こうして大方の渓歩きが終わる頃、一抹の寂しさを覚えるのは岩ヤ沢ヤ山ヤ釣ヤに共通する話題であろう。私も例外ではなく、心に空白が生まれた。この虚脱感で趣味人としての道楽は終わりを迎える日がやってくる。勿論、年齢的なハンデ、社会的地位向上、家庭内トラブル、金銭欠乏、こんな複雑な要素が絡み合うのだが・・・
そんなこと、あんなこと、すべてのことを犠牲にして趣味を貫く野郎がいる。アウトドアのスペシャリストと呼んでやりたい、本物の「山馬鹿」が少数派だが世の中にいる。
この山馬鹿、釣り馬鹿と同類だから説明を省く。面白いことに、山と釣りを上手にこなす両刀使いが存在する。度々の例で申し訳無いが小生が「山釣り馬鹿」そのものである。ダブルアホだから山では敵知らず。一度この世界にのめり込んでしまうと死ぬまで、いいや死んでからも精神を世に残し、その魂は永遠に生き続けられる。もしかすると、私の背後霊は先人の山釣り馬鹿そのものの霊魂がのりうつっているのかも知れない。

『食い物を探す』
どうにもならない山釣り馬鹿にもかかわらず、幾つかの特技を持ち身につけている。それは、山中で生きぬくサバイバルだ。具体的に簡潔な生き残り山岳ゲームを公開する。
まずタンパク源。釣り用具があれば沢でイワナが釣れる。仕掛けがなければ沢に入り、川岸のエグレに両手を静かに入れながら魚を包み込む要領で獲物を捕る。

次は山菜。食べられる植物の知識があれば、ビタミンそのものの新鮮な繊維質が確保できる。例えば、春のウド。夏のフキ。秋のミズナ。季節での旬のものが簡単に手のはいる。また、木の実もうまいものがあり、ヤマブドウ、サルナシ、マタタビ、コクワ,ヤマクリなどが収穫できる。
究極の食べ物がキノコ。一般的に食べられるキノコは春と秋に発生する。ナラタケ、ヒラタケ、マイタケ、ナメコなどがブナ林に自生し、ホンシメジ、チチタケ、コウタケなどは雑木林にある。アカマツ林にはいると、マツタケが見つかるかも知れない。
このように、山知識を身につけていれば自由自在に山岳生活を営むことも可能なのだ。
山の幸オンリーのサバイバル山行こそ、大いなる山に対してその新しい未知なる境地を発見できる何者かを秘めている。

『点と線』

松本清張の推理小説に「点と線」がある。映画やテレビにも登場している有名な作品だ。私もその著者にあやかった訳ではないが、山にも同じ内容の事柄がある。
山からの恵みである山の幸が点。沢を遡行する行為が線。点と点を結ぶと線になる。点と線を幾重となく重複させれば点と線は次第に大きく成長し、やがて面となる。
面ができあがれば、初めて地形図が描く等高線を体験しながら山の現実を立体的に歩いたことになる。
単純に生き延びるためだけで山の幸を求めてもだめだ。万物のすべては自らの繁栄をひたすら願いながら、自身の生きるエネルギーのみでそこにある。ものがなんとなくあるのではなく、ものがそこに存在する理由があって、ものはあることを理解することが大切だ。
面をいくつ持ち合っているかで山行は決まる。また、面をどのように解釈しているかで山行の筋書き、内容、すなわち予定していること全部が出発に判ってしまう。面の最大の特徴は見知らぬ場所でも面を応用し、そこに何があるのかを予告することもできる。
実にユニークな面のおかげで、自分自身のいたらなさを補ってくれた。ここまで、いやこれからも面を育てながら山を歩きたい。山という自然はそこに訪れるすべての人に平等にフィールドを提供してくれる。だから山が好きになり、長い間あきもせず続けられた。
もしかすると自分の半生、いや生涯を棒にふりそうなイワナと山のつきあいだが、山と私の距離は未だに遠く謎解きは困難である。一つの課題が解決すると、次から次に難解な問題が追加され、ことへの成就はない。

2.ロシアへ・カムチャッカの想い